富山ってこんなところ

立山地獄  ~日本中の死者が集まるとされた山~

-日本の地獄-

『地獄に見立てられたのは、白煙が吹き上げていたり、硫黄臭の漂っていたりする火山性の山だった。
また、日本仏教において閻魔大王は地蔵菩薩と同一の存在とされているため、日本各地には閻魔大王を祀る寺も多い。
以来、日本人は地獄をバーチャル体験するため、異様な景観の山やそこに湧く温泉、閻魔大王を祀る寺をしばしば訪れるようになった。
そしてその習慣は現在も連綿と続いている』

<立山曼陀羅に描かれた立山地獄> 立山博物館所蔵

<閻魔台より地獄谷を望む>

<地獄谷>

<血の池地獄>

阿弥陀如来の立つ極楽浄土も、死霊が落ち込む地獄も、現実に存在する山の中にあります。

実在の山中に地獄があるという信仰は日本特有のものであり、古来の山岳信仰と仏教の地獄思想が結びついて生まれたものです。

飛騨山脈(北アルプス)北部の立山連峰に位置する立山は、江戸時代前期(1600年代)には、すでに富士山、白山とともに古くから霊山として多くの信仰を集めており、富士山、白山とともに日本三大霊山の一つとして知られ、本州の真ん中には、この三山を巡拝する壮大な巡礼コースが存在していました。この大旅行は、主に中部・東海地方の人々によって明治時代まで盛んに行われてきました。

現代人の私たちが一般的に「立山」の言葉で想像する事象や事物は、立山の雄大な山岳風景や高山植物、雷鳥、
アルペンルート、雪の壁など、そのほとんどが自然にかかわるものです。

しかし立山が日本の歴史の中で絶えずその存在感を保ち続け得たのは、自然もさることながら、それよりもむしろ山中にあるという、恐ろしい「地獄」のおかげだったのです。

古くは「万葉集」の中にも登場し、大伴家持が「立山の賦」として題して詠んだ歌が残されています。その後、平安時代頃になると、立山山中には地獄があると考えられるようになりました。
「今昔物語」にも立山地獄の登場する物語がいくつか納められており、「日本国の人、罪を造りて多く此の立山の地獄に堕つ」などと記されています。

その理由は、立山地獄谷の雄大かつ異様な景観にあります。ポッカリと口を開ける火山、煮えたぎる熱泉や轟音とともに吹き上げるガス、鼻をつく硫黄臭…その荒涼とした景色は、この世に姿を現した地獄そのもの。

立山には、開山伝説に基づき山域の各所が浄土と地獄にそれぞれ比定されました。立山浄土としては、立山三山、なかでも雄山は仏そのものであり阿弥陀如来の仏国土である極楽浄土の象徴とされました。

立山地獄は現在の地名にも残る地獄谷であり、硫黄臭ただよう場所です。その近くのみくりケ池は、血の池として、また剣岳は針山地獄であるとされました。

元々、山上他界が存在するという信仰があり、立山信仰のありかたの元になっています。立山を巡拝することで死後の世界を疑似体験し、形式上「他界」に入り、「死」から戻ってくるという修行を積むことができ、超常的な力(法力)を身に付けることが出来ると考えるようになったものです。

立山山麓には、岩峅寺や芦峅寺をはじめとした信仰登山の拠点があり、宿坊を兼ねた宗教施設としての村落がありました。そして、そこに住む人々を中心に日本全国に勧進が行われていました。

立山修現の世界観は、今日まで伝わる「立山曼陀羅」に描かれた世界を見ることで、窺い知ることができます。

人々は立山を極楽、地獄谷を地獄、剣岳を針の山に見立て、立山地獄で徹底的に地獄を体感し、立山の神仏に登拝することで極楽に行こうとしたのです。

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