富山湾のお魚プロフィール 旨い魚をいろいろ美味しく! お魚よもやま話 富山ってどんなとこ?(観光・文化・歴史)

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富山ってこんなところ

富山の売薬業
  ~かっては富山藩の経済基盤なるも、従事者は ピークの1割~

富山と言えば、売薬さんを思い浮かべる方もいらっしゃると思います。
そのルーツと今について・・・

加賀藩から分藩した富山藩は、参勤交代、江戸幕府の委託事業などで財政難に苦しめられており、加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために売薬商法を武器に起死回生を図ることにしました。

1690年、富山第2代藩主 前田正甫が参勤交代で江戸城に登城した際、城中で腹痛になった大名に富山売薬の反魂丹(はんごんたん)を服用させたところ 腹痛が驚異的に回復-
このことに驚いた諸国の大名が富山売薬の行商を懇願したことで富山の売薬は有名になり、そこから全国に広がっていったと言われています。

幕末期には売薬行商人は約2,300人余りに成長しました。

売薬さんの装束
<売薬さんの装束>
柳行李
<柳行李>

富山の薬売りのトレードマークともいえる柳行李(やなぎこうり)は、重さが20kgになります。
富山の薬売りはこれを背負い、毎日20~30kmの道のりを歩いたり、船便を使ったり、時には馬の背に乗せたりして行商しました。

富山の売薬さんは、自分の商売範囲(行き先 テリトリー)の宿に期間滞在し、懸場帳(かけばちょう、顧客台帳)に書かれた得意先を、薬を詰めた行李を担ぎ訪ねまわり(行商し)ました。
風邪薬や咳どめ薬、絆創膏、胃腸薬の赤玉、熊の胆・・・懸場帳を見ながら薬を補充したり、または入れ替えていきます。

薬を置かせてもらい、その中から使用された薬を補充するとともに、その使用された薬の代金を受け取る先用後利(せんようこうり)という商売方法を編み出したのは、富山の売薬です。

単なる薬のサプライヤーではなく、訪問先の健康相談にも乗る等、この仕事は、「長い時間をかけて築く信頼の商売」であり、今に通じる”商売の原点”と言えるでしょう。

薬を補充しながら売り歩く売薬人たちが、全国規模で行商していたこと、各売薬人が売り歩く先が厳格な「テリトリー制」になっていたこと、「向寄」や「仲間組」といった組織を作り、営業権の確立について各藩と交渉し、利権の確保をしていたこと。
また、その組織では構成員がおかしな商売のやり方をしないよう統率を図り、全体として内部統制システムが機能していたと言われています。

昔なつかしいレトロな紙風船
<昔なつかしいレトロな紙風船 おまけのルーツとされる>
売薬版画
<得意先様へのお土産として人気があった売薬版画>
売薬資料館HPより

売薬さんがお得意様を訪問する際は、お土産(進物品、今で言う販促グッズ)を持参していました。

ご年配の方の中には、子供の頃、売薬さんが訪れる時に持参した紙風船などのお土産を貰った記憶のある方がいらっしゃるかも知れませんね。
こどもたちは、年に一度訪れる”薬屋さん”が持ってくる紙風船を待ち焦がれていました。

また、大人はお土産に売薬版画をもらい、各地のニュースを聞くのが楽しみとなっていました。

昭和初期には売薬人の数は12,000人へと増加し、富山県内の鉱工業生産高の第一位を占めていました。 また、同30年代まで、富山市内の3軒に1軒は売薬に何らかの関係がある仕事についていたと言われます。

富山では、行商だけでなく、製薬も盛んに行われていきました。
さらに関連産業(包装、製紙、木工、金工、焼物、印刷、薬種商、運搬業など)も盛んになりそれは現在の富山の地場産業にもつながっています。

時代の変化により後継者は減り、昨年の売薬従事者の数は1,018人でピーク時の1割を切り、またその平均年齢は68歳に達したということです。

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